先の日記の続きです。
よく「貴女は、いくらでヌードになりますか?」と言う企画で、わりとかわいい女の子が「10万円でOK!」とか、いかりや長助みたいな女性が「2億円でもイヤ!」とか聞きますね。
本心か冗談かは別にして、自己評価が異常に低い人間と、高い人間とは確かに存在すると思います。
AVに出る、援助交際をする、自傷行為のある女の子は自己評価が低いと聞いたことがあります。
さて、造型の世界ではどうでしょう?
私も含め、原型師、造型師を名乗っている人間は、総じて自己評価が低いように思います。
反対にアーティストを自称する人間は、自己評価が高いのではないでしょうか。
残念ながら私はアーティストの知り合いがいないので、以下は想像です。
仮にここに、伝統的な仏像を可動にするなりして、すごくスタイリッシュなフィギュアにした作品があるとします。
造型師はそれを商品の原型として販売会社に提供します。
アーティストはそれで個展なり展覧会で、世に発表します。
造型師はこう考えます。「ぼくの作っている程度の作品は、江戸末期や明治のころの職人が作った、超絶技巧の細工物の足元にも及ばない。まだまだもっと良いものを作らねば。」(想像)
アーティストの気持ちは私には分かりませんが、多分「俺はミケランジェロを超えたぜ~!」って思うんでしょう。(ちがう?)
私は自著にも書いていますが、恐竜模型を作って生活していますが、私より上手に恐竜を作れるひとは、世の中に星の数ほどもいると思っています。(たまたま違うものを作っているとか、才能に気が付いてないとか、世に出ることに興味がないとか)
ですから造型師はいつもこう思っています。「自分の代わりはいくらでもいる。だからがんばってもっと良いもの作らないと。」あるいは「こんなもの、誰にでも作れる。」とも。
アーティストはこう思ってるんでしょうか?「俺の代わりなんかこの世にはいない。」あるいは「これは俺にしか作れない。」
もちろん、これも単純に2つに分けられるようなことでないし、考察が浅いのも承知ですが、造型師に関しては、おおむね間違ってないと思います。
自己評価が低い、謙虚、自信が無いは、同義ではないにしろ相似かもしれません。
「山下信一 フィギュア作品集 The Figure Complex」(グラフィック社 2004年 絶版)という本のなかの山下氏(元海洋堂原型師)と空山基氏(セクシーロボのイラストで世界的に有名な)との対談で、空山氏が「原型師の才能は認めるけれど、責任とらないだろ。俺は(自分の作品に)言い訳しない。」と言っています。
面白い表現ですね。自信を持って責任を取れる作品を発表できれば、その時点で造型師も表現者なのかもしれませんね。
(このブログは「恐竜模型の世界」の一部です)
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